光-呼吸 そこにいる、そこにいない
シリーズ解説


Light Panels

 光をモチーフにした私の作品では、ライトパネルをたくさん制作してきた。発光するイメージに相応しい見せ方だと考えたからである。

 私の写真に人物は登場しない。そこにあるのは風景と事物と光だけ。しかしながら人間を避けて撮影しているわけではなく、写真が写る仕組みとして長時間露光のために光以外の動くものはすべて写らないのである。線状の光は、夜間に被写体となった私自身がライトで描き、点状のものは日中低露光状態にしたカメラに向けて一個の鏡を使って陽光を反射させたものだ。

 私が写そうとしているのは、実は人間そのものなのである。形象としてではなく私を窓口として、その営為や為された町、空間を見ていこうとすること。是非や審判ではなく、時代や存在に対する興味。ちっぽけな自身の日常も、歴史的なモニュメントも、現代の社会的矛盾の象徴物も、遙かな時空に視点を置くとすれば、どれほどの差異が見えるのだろうか。私が作品をつくろうとする衝動も含めて、これらは人間の生を全うしようとするための矛盾を孕んだ潜在的な欲望の反映なのではないか。

 これらのトリプティックは、ヨーロッパ滞在中に見た風景と生活の部分を、同じように私自身の光を加え撮影したものである。位相の異なる対象を、写真という二次元化装置に取り込むことによって同一俎上に並べることを試みた。

City scape

 写真は、私をアトリエから外へ連れ出してくれる有能な乗り物(vehicle)である。同時に、時として分断しがちな私の観念と感覚の間を取り持つ通訳のようでもある。

 普段の、ごく当たり前な日常生活の中なかでも、ちょっとした磁力を持った場所に自然に吸い寄せられてしまうことがある。わずかな燐粉を発光させているような、時代の気配を漂わせているような、場所。

 私が写真作品の制作を始めた80年代後半から90年代にかけて、バブル景気によってスクラップ&ビルドが進み、東京は大きく変貌した。最初は身近な空間で制作を開始したが、次第に都市のなかの新たな建築空間と土地、そのわずかに気圧の違う部分を見つけながら吸い寄せられるように作品の舞台とした。

 特にかつて13号地と呼ばれたお台場から先の新たに埋め立てられた土地には足繁く通った。臨海副都心計画地は、95年の世界都市博中止とともに広大な場所にインフラ整備されたままうち捨てられた土地で、絶好の制作舞台となった。

 建築物のなかに、あたかもエアポケットのように私には見える空間がある。そこで私は長距離走者や泳者のような一定のリズムで手と足を動かし、呼吸し、光を振るう。その行為し続ける時間のなかで、思考と無思考が反復され、頭のなかには抽象的な時間が満ちる。

From the Sea

 光を手にしたいという欲望は、常に私の制作衝動としてある。しかし溢れる光のなかにいながら、その実体をつかむことは難しい。ペンライトを用いた制作を始め、闇夜の制作から一転して明るい日差しのもとで制作しようと考えたのは、それほど間をおいてのことではない。

 狂ったような景気の後の都市の停滞は私の興味を次第に遠のかせていった。長男の誕生とともに、生命への想像力は、連綿と続く進化の不思議とともに日本の四方を取り囲む海に向かわせるのに十分だった。いわき市美術館での展覧会の制作もあり、足繁くいわきの海に通った。

いわきの海では波と戯れ翻弄されながらの制作だった。海にレンズを向けるというよりは、先ず泳ぐ衝動に駆られた。海水に揺られながら太陽を捉えることは難しくもどかしい。潮の干満にも悩まされた。だが一個の原初生命体に立ち返ったような、えもいわれぬ気分になった。同時にすべての事象が海と光(太陽)から始まったことと、すべてを水(海)に流すという古くからの人間の慣習を思い浮かべながら、遙かな自然の崇高と人間の存在を考える時、私はパラドックスに陥ってしまう。

 上の一節は96年の制作当時に書いたものだが、その後起こった震災や原発事故をふまえ、あらためて深くかみしめている。制作した場所も津波被害があった。私はためらいながら勇気をだし昨年再び制作場所に近づいてみたが、ただただ声を飲むだけだった。

In the Snow

 雪中での撮影の前に逡巡したことがある。足跡を写すか写さないかということだ。足跡が写れば私の行為性が際立つし、写さなければより抽象性が高まる。私は後者を選んだ。感光材料に光が反応していくことによって写真が写るわけだが、光に反応した場所は元には戻らない。したがって、雪面が一度明るく露光されてしまえば、足跡(影)をつけてももはや写ることがないのである。私は通常はカメラのシャッターを開けた後、手前から鏡を使いカメラに向けて光を反射し始めるが、雪の撮影では、一度フレームアウトし、写る範囲の一番遠いところからスタートした。

 ペンライトを用いた夜の撮影と鏡を用いた日中の撮影は、最初は同じ動機で始まったものの制作を続けるうちに意味が大きく異なってきた。夜間の撮影は、光をコントロールすることが容易なので、スタジオでの制作のように小型ストロボを使いモデリングできる。いわば光を用いた彫刻のような制作であった。

 しかし海や自然のなかでの制作を繰り返すうちに、コントロール不可能な要素、天候や海の干満、そしてその他の自然現象などに弄ばれることが多くなった。意識が自然に変わっていったと言ってよい。作るという積極的な意識から、光を受けるという、受け身の立場を意識するようになってきた。とりわけ雪のなかでの撮影は、雪が降ることと陽が差すこと、矛盾を孕んだ難しい撮影である。

Trees

 日本列島はかつてユーラシア大陸とつながっていた。われわれの祖先も遙かな旅の果てに渡ってきたと言われているが、同時にブナの木も伝わったらしい。日本中を旅すると、もはや針葉樹の人工樹林がその風景になっている。私が育った故郷の風景はブナの森である。ブナの森は深く水を溜めこんでいる。

 宗教とは人間がより良く生きていくためにその存在を超える「何か」を設定して自らを律していくようなシステムなのだと直感的に理解している。

 仏教伝来以前から日本には八百万の神々がいた。人々は自然のなかの崇高な場所を見つけては信仰の対象としてきた。西洋にもいろいろな場所に巨石文化や森の妖精伝説などがある 。森のなかにひとりで佇むと、聴こえてくる音は葉のざわめきであり幹のきしみの音であり、ときおり鳥や動物の鳴き声もある。

 私にとってこのシリーズは木を擬人化したものだ。その存在や形態は男性モデルの筋骨のようにたくましく、女性モデルの柔らかな曲線のように妖艶である。私はその木々の所有する空間に参加し、言葉に耳をかたむけ、それを増幅しようとした。

 太陽が東から昇り南中し西に沈む。太陽を木漏れ日のなかに求めながら、目的の木に差し込むわずかなチャンスを探す。太陽から木への入射とそこに寄り添う私からの光の反射。それを受けるカメラ。そこには明確に直線的な三角形ができあがる。その幾何学的緊張感が、私をふたたび撮影に向かわせる。

Polaroid Works

 いつもは8×10のカメラを担いで撮影に出かけるのだが、海外にはコンパクトな4×5のカメラを持って出かけることが多かった。そんなときにポラはスペシャルな材料である。デジタルカメラのない時代にその場でイメージを確認できて、イメージを他者と共有できる。場合によっては現地で展示もできた。

 写真はイメージの複製性や可変性にその第一の特質を持つが、ポラロイドに関しては、薄さという厚みをもつ紙が非常に物質的で、ただ1枚の存在のユニークさが持ち味だ。このシリーズは4×5のtype59というシリーズを使って撮影したものである。

 どの土地も、じっくり旅をすることは深く楽しい。とりわけローマは私にとって初めてのヨーロッパだった。アッピア街道を美術家の岡部昌生氏と一緒に歩いた。燦々と降り注ぐ太陽を反射させる自身と地面を鉛筆で擦りとる岡部氏。それぞれが異なった方法でローマの時間の縦軸をキャプチャーしていた。

 アインドホーベンにはグループショーのために出かけた。頑丈な自転車にカメラをくくりつけて町中や郊外を走り回ったが、オランダの自転車文化に初めて触れた気がした。充実した自転車レーンを逆行して婦警さんにこっぴどく叱られた。

 ユカタンは「空間・時間・記憶」展のオープニングでキシコシティに出かけたのちにレンタカーを借りて、シティ周辺とともに旅をした地だった。ユカタンではメキシコ人のガイドとともに一週間旅をした。ラグーンで泳いだ時には、財布もパスポートもカメラも全財産をガイドに預けるしかなく、並ならぬ緊張感とともに鏡を持って泳いだのだった。幸い作品を残すことができた。

Gleaning Lights

 「この場所を撮りたい」、と思うことがある。しかし、カメラを手に取ってファインダーを覗きシャッターを押してみても、何かが滑り落ちてしまう。四角いフレームで切り取られた世界は、必ずしも私の欲求を叶えてはくれない。欲しいのは断片としての矩形ではなく、その場の空気のようなものだ。むしろ、“場”そのものを持って帰りたい気分なのかもしれない。

 フレーミングという基本的な行為、その構図やフォーカスを合わせる作業は、私にとって、どうも近代的な美術の枠組みに合致しすぎていて、できるものならば避けて通りたい作業なのである。

 一方、ピンホール・カメラの写真は、自らが撮ろうとすることよりも、収穫を待つような側面が強い。そのイメージの形成において、個人の意志以前にメカニズムによってその骨格が形づくられる。それは弱点ではなく、むしろ独自な可能性なのだ。

 私は種を蒔くように写真装置を仕込み、そして針穴を通じた光は、すべてに均等で、しかも正確な一点透視による世界を写し出す。ファインダーという便利な機構はなく、写し込まれる画角は想像するしかない。その、ざっくりとイメージをあぶり出すような行為や、針穴から漏れ入る光だけで描き出される世界は、その場所を撮りたいという衝動を越えて、収穫された光となる。

Gleaning Lights 2

 デジタル技術によって銀塩の写真文化が脅かされたのは事実である。ひとつの完成形をみた技術を続けることが困難になってきている。今回の展示に出ているリスフィルムもポラロイドも、今ではすでに手に入らない。しかし同時に、新たな技術によって写真の別方向への可能性の拡がりも見えてきた。

 何よりもパーソナルコンピューターと記録媒体の加速度的性能の向上とソフトウエアの発展によって、暗室作業や写真作業の気分そのままにデジタル加工ができるようになってきた。かつてデジタルな写真といえば合成技術の側面ばかりがクローズアップされてきたが、銀塩時代のファインプリントと同じように捉え直して活かすことができる時代なのだ。

 このシリーズは8×10フィルムを使用するルーティンから逸脱して、一台の高解像度デジタルカメラを試験的に使うことから始めた。ひとつはレンズを使わずにピンホール・カメラで撮影したもの。もう2つはレンズを使ったもの。いずれもGleaning Lightsシリーズの発展形である。小さな部分をつないで大きな画面をつくることは、なかなか興奮する作業だった。

 私にとってリアリティのあることは、写ること、写ってしまうことにある。8×10の描写力はいまだに私を魅惑してやまないが、一個の小型カメラに潜むデジタルの魔力にも今少し誘惑されつつある。

Wandering Camera

 90年代に温めていたアイデアを新科の開設とともに学生たちと実現させた。乗用車で牽引することによってどこにでも出かけられ、しかも身体レヴェルの大きさの映像を体験できるカメラ・オブスクラである。直径100mm焦点距離2500mmの単レンズを備え、45度にセットした鏡により200cm×300cmの床面に映像が焦点を結ぶ。時には泊まるための家にもなる。これを使い、北海道から沖縄、韓国まで各地を行脚し、人に見せ、映像を体験してもらい、またさらに印画紙(ポジポジぺーパー)を感光材に使ってさまざまな土地を撮影して行き、同時に内部の映像を覗く人の姿もフォトグラムのように映り込ませていこうというプロジェクトであった。

 “カメラ”とは、もともと部屋という意味の言葉である。閉ざされた空間に小さな穴が穿たれると、そこから光が空間の一方に向かって外景を映し出す。穴から一直線に突き進む光は、見ることの、見えることの神秘を、極めてシンプルな構造によって知らしめる。その、驚くべき簡潔さが作り出す現象の謎は、見ることが複雑化した現代においても、新しい視覚への興味として色あせることがない。

 部屋に差し込む光が映像化するという原理から発するインスピレーションが、家のような器にまで拡大した。さらにそれが体験する人を待ち受けるだけではなく、積極的に町のなかに飛び出していくような移動式の巨大なカメラ・オブスクラの発想を生み出し、話だけにとどまらずに現実に制作することになった。

 最初は“漂泊するカメラ(家)プロジェクト”として始めた。しかし、われわれはこのカメラによる旅を直接“漂泊”と呼んだわけではない。そうではなく、われわれのよりどころとする意識、時代の感覚、国の感覚、個人の感覚、つまり“アイデンティティ”には、帰るべき家はあるのだろうか?という疑問がプロジェクト開始の発端なのである。旅はやがて帰るべき場所を思うことである。しかし、そもそも現代に生きるわれわれの自己認識のルーツには落ち着くべき家などないのではないか? そんな思いが、実際に北から南まで日本全国を旅して回り、このプロジェクトを確認してみようということにつながった。

Wandering Camera 2

 現場のイマジネーションを他者と共有するひとつの手段としてカメラ・オブスクラを制作するようになったのは、90年代初頭からだった。Wandering Cameraプロジェクトでは牽引式のカメラの床に印画紙を敷き直接チバクロームペーパーや、ダイレクトカラーペーパーに撮影したが、近年体験を共有するプロジェクトが続いていたので、写真作品としてテント型のカメラ・オブスクラの地面に映るイメージを8×10カメラで記録するプロジェクトを始めた。

 何しろ地面は遮光したテントのなかで、カメラのファインダーには何も見えない。明かりを置いて何とか焦点を合わせながらやっている。闇に光が差し込んでイメージを形作る様を20年間以上見続けていても、全く飽きることがない。

 そもそもカメラ・オブスクラで覗くことの意義は、普段、当たり前の日常の風景や躊躇してしまうようなクリシェを対象としても、カメラを通じて見ることで新鮮に見えることなのである。今やりかけていることは、日常から少しさざ波が立っている場所までを同じようにカメラ・オブスクラのなかに捉えること。

 今回は自宅の風景に始まり、かつて訪れた東北から三陸にかけて。そして何よりも日本列島という、縦に細長い、太陽が海から昇る場所も沈む場所も同時に存在する国にいることを、意識化しようと考えた。

 Wandering Cameraプロジェクトに比して小型になったとはいえ、このテント型カメラも大きい。もう少し小型のものも制作中だ。このプロジェクトはそんな技術的な問題もあり、まだ完璧な状態に至っていない。しかしながら、進行形として発表したかった。

学芸評論家文書


透徹した光の詩学

三田晴夫(さんだはるお/美術ジャーナリスト)

 こちらの目の感度に多少の難はあっても、展覧会を見続ける鍛錬を積み重ねていると、おのずと向き合っている作品について、およその判断がつくようになるものだ。そのような筆者のフィールドワーク経験に照らしても、出会った作品から身じろぎもできないような衝撃を受け取ることなど、そうざらにあるものではない。 もう四半世紀以上も昔のことになってしまったが、1988年に銀座の画廊で見た佐藤時啓の個展は、数少ない戦慄を覚えたひとつとして、当時の感興が今もまざまざと脳裏に蘇ってくる。 もともと東京藝大で彫刻を専攻していた佐藤が写真というメディアに移行した初期の、今から思えばモニュメンタルな転換期を告げる個展だったはずであるが、東京の美術現場を回り始めたばかりで、そうした事情を知る由もなかった筆者にとっては、それはいつもと変わらぬ行き当たりばったりの出会いであった。
 さして広くもない展示室に、いったい何点の作品がどのように並んでいたのだろう。もはや細部のあれこれは彼方の煙霧に紛れてしまったが、展示場に入った筆者の目をたちまち釘付けにした特異極まる画面だけは、飽かず見続けたせいもあって、今にいたるまで鮮明に記憶に残っている。写真の舞台となったのは、佐藤の母校・東京藝大の校舎であったろうか。闇に包まれた建物屋内の階段や通廊や部屋に、ひょろひょろとした夥しい白い線群が身をくねらせながら床から立ち上がっていた。 まるで自発的な意志を持った線状の生命体よろしく、それらは増殖しながら下階から上階へ、あるいは上階から下階へと、隊列をなして音もなく移動していく。そのゆらゆらとした白い線群の正体は何なのか。あいにく作者の佐藤は不在であったものの、こちらの疑問を受け取った画廊主が、それはカメラの視野のなかで作者自身が振り動かしたペンライトの光跡であり、シャッターを開きっぱなしにした長時間露光による撮影によって、所作や移動を繰り返す作者の影が消失したものです、と画面の種明かしをしてくれたのである。 なるほど、都市の夜景を撮った写真のなかで、道路を走る車が光の線や帯と化しているのと同じ原理なのか。 そのように感心させられたのが、つい昨日のことのように思い出されてならない。

 しかし、白い線の正体や制作機構の実際が明らかになったからといって、画面から受け取った最初の衝撃、スリリングで謎めいた感覚とともに筆者の身体を駆け抜けた戦慄は、いささかも減じることはなかった。くねくねと揺らめきながら空間に溢れ返る白い線の群れ――つまりは、透明人間と化した佐藤自身が振り動かすペンライトの光跡群――の生々しい息づかいや、意志を持った生物のような所作は、夜の闇に覆われた無機的な建物の屋内を、新たな思念や幻想を息づかせる場へと変容させてやまなかったからである。 ところで先に触れたように、筆者はこの個展を通して、佐藤がもともとは鉄の彫刻を手がけていた人だと知った。その当時の彫刻作品を知る機会を得ないまま歳月は流れ過ぎてしまったが、幸いにも1999年に彼の故郷である山形県酒田市の酒田市美術館で開催された「佐藤時啓のまなざし『光―呼吸』」展の図録に、《慈雨》という彫刻作品の写真と担当学芸員・佐々木和夫氏の詳細な解説文が掲載されて、ようやく筆者もその空白を埋めることができたのだった。 それによれば、佐藤は鉄を主素材としながらも純粋造形の彫刻ではなく、土や水、発火した炭、植物なども併用して錆びや蒸気といった現象を発生させるなど、生態学的もしくは環境的な視点にもとづくインスタレーションを志向していたようである。

にもかかわらず、「出来上がってしまったものは鉄の塊でしかない」★1ことへの欲求不満が、物体彫刻からの離脱を促していく。 また佐藤は、彫刻の手詰まり感の所以を「どうしても装置のような作品、つまり原因と結果がはっきりしているようなもの」★2に陥りやすいこととみなし、「光をフィルムの中に積み重ねてできあがるという四次元の問題を潜在的にはらんでいる」★3ところの写真に、物体彫刻を超えていく可能性を見いだした経緯を述べたり、写真家との座談会で「自分のつくっている作品が社会と関係しないで隔絶された存在、疎外されているような気がしてきたんです」★4と、彫刻への飽き足らなさを吐露したりもした。 以上のような言葉から佐藤を写真へと駆り立てた内在的動機が推し測れるとすれば、外在的動機として、東京藝大写真センターの運営に尽力した榎倉康二をはじめ、先行世代の美術家たちによって、1970年前後から写真が不可欠のメディアとして多用されるようになった状況も見逃せまい。ただし同じ美術家の写真といっても、行為や制作のドキュメント、もしくはコンセプトといった性格を帯びていた先行世代に対し、佐藤のそれは、「光による彫刻」★5というイデアに貫かれていた点で、著しく独自性を際立たせていたといえるだろう。


 「画家がヴァルールと呼んでいるものが、写真では付加できずに、最初に撮ったときに決まってしまうのではないか?いいかえれば、写真は対象をどう選んだかということが、決定的な重さを占めてしまうようにおもえる」★6と書いたのは、写真に熱中したことでも知られる詩人・思想家の吉本隆明だった。 たしか絵画と写真の類似と差異に触れた断想であったが、思えば彫刻時代も写真への転進後も、佐藤はこの「決定的な重さ」を鋭く自覚し続けてきたひとりといってよい。そのことは「最初の頃は彫刻のテーマとして〈生きているというのは何なのだろう〉とか〈生命というのは何なのだろう〉ということを考え始めて、それを光とか水とか生命のいろんな要素を使って立体作品をつくり始めた」★7という発言からも、「是非や審判ではない、時代や存在に対する興味」★8に寄り添いつつ、「呼吸すること、つまり、生きること。自明のことでありながら無意識のこと。このごくごく当たり前な生理的行為を意識化すること、が私の制作の基本である」★9という記述からも、如実にうかがえよう。そうして彼が選んだ対象は、「微かな燐粉を発光させているような、時代の気配を漂わせているような、場所」★10であった。

 佐藤の写真に出現した光は、かくして建物の屋内から戸外へと飛び出していく。それは、再び佐藤自身の言葉を借りれば、彫刻であれ写真であれ、自作を「社会と関係しないで隔絶された存在」としない態度に基づく、いわば必然的な移行かもしれなかった。 しかし、ペンライトという光ののみを振るおうとすれば、当然ながら戸外での撮影作業は夜間に限られてしまう。では、一日のうち地上に明るい太陽光が降り注ぐ日没までの時間には、ペンライトの代わりにどのような光の鑿を使えばいいのか。賢明な佐藤のことだから、おそらく瞬時のうちにぱっと閃いたに違いない。もしも案に相違して、考えに考えを巡らしたあげくの解決法であったのなら勝手な類推を詫びるしかないのだが、ともかくも佐藤が割り出した解答――ペンライトに続く第二の武器――が、手鏡である。 三脚に据え付けたカメラのシャッターを開放にし、彼はその視野のなかを動き回りながら、手鏡に太陽光を集めてはカメラに向けてそれを反射させる行為を繰り返す。長時間露光撮影なので、ここでも動き回る佐藤と行き交う人々や車などの姿は、定着されることなく揮発してしまう。都市部であれば高層ビルや住宅家屋、商店、工場などの建築物に、街路樹や信号、種々の標識、道路。自然界だったら、岩場のある海辺とか山間の樹林や湖面とかを挙げてもよい。 これら不動の対象物と、鏡を手にして絶えず位置を変え続ける佐藤がそこかしこからカメラめがけて放った反射光の痕跡である白い点群とで、このシリーズの画面は構成された、これまた超常的とも神秘的ともいうほかにない〈光の詩学〉をはらんだ情景がめくるめくように展開されていったのは、1990年代序盤以降である。

 だからといって、第一の武器であるペンライトの出番がなくなったわけではない。日中の仕事を終えて帰還した手鏡と入れ替わりに、それは夜間の仕事に出陣していくこととなる。ここで当時の佐藤が、対象として選んだ「微かな燐粉を発光させているような、時代の気配を漂わせているような、場所」に注目しておこう。 まずペンライトによるシリーズの主舞台となったのは、ベイ・エリアとかウォーター・フロントと呼ばれ、埋め立てや開発事業がせわしなく進行していた東京湾岸の臨海副都心である。そこは着々と建ち上がる建造物が近未来幻想を掻き立てる反面、その機能と管理を最優先させる都市理念によって、まさに「呼吸すること、つまり、生きること」が希薄化されかねない懸念を抱え込んだ場所でもあった。そのような場所としてのアンビヴァレンス(相反的両面性)が、佐藤の創造意欲を掻き立てたのは疑いあるまい。 実際、この開発現場にある工事車両や、まだ残された荒地に打ち捨てられた廃乗用車を、小刻みに震えるような光の曲線でなぞったカラー作品などに、「是非や審判ではない、時代や存在に対する」佐藤の眼差しを確認することができる。 しかし、「光による彫刻」という観点に立てば、この開発地域の構造物や道路の表面、あるいは未造成地の長い溝などで、白い旋回線の群れがダイナミックにからみ合い、乱舞しながら増殖を繰り返し、ついには対象物の姿態をファンタスティックな光の立体へとメタモルフォーズしてみせた作品群にこそ、初期代表作の称号を授けるべきだろう。


 ペンライトよりも長い射程で続行中の手鏡によるシリーズでは、その舞台は首都圏のみならず、国内各地からいまや遠く海外にまで及ぶ。夜間よりも制作上の制約が少ないことにもよるのだろうが、白い光点の群れが浮遊する情景から醸し出される白昼夢的なまどろみの世界が、いささか不穏な気配の立ち込めるペンライトによるシリーズよりも、幅広い共感をもって迎えられているせいかもしれない。たとえば臨海副都心のほか、渋谷や新宿、秋葉原といった都心の繁華街を舞台とした印象深い初期作品も思い出される。 しかし、「是非や審判ではない、時代や存在に対する」視線が、深い抒情性と結びついた作例として筆頭に挙げるべきは、北海道・夕張の廃坑跡の施設群をテーマとした連作であろう。場に浮遊する無数の光点の群れが、寄り集まって朽ちた建造物を慰撫しているかのようにみえる情景群である。蛍の幻覚を誘う異次元的な光と、かつての工業化社会を支えてきた炭坑の残骸。後者が近代日本の歴史的な記憶の象徴物とすれば、そこに寄り添う光点の群れは、現在という地点からその対象に注がれる作者・佐藤の視線であり、かつ外在化された彼の意識もしくは無意識にほかなるまい。しかし、1979年のスリーマイル島、1986年のチェルノブイリ、そして2011年の福島という原発の大事故を経てきた現代に思いを致せば、フランス滞在から帰国後の1994年に発表されたトリプティク(三連画面)の大作ほど、永遠的な主題性を背負ってしまったものもないだろう。 中央にペンライトの光がまとわりついた瓶入り食品の小画面、向かって右にストーンサークルの遺跡、左にフランスの原発の大画面が配され、遺跡や原発の風景には、手鏡の反射光による光点の群れが重ね合わされる。紛れもなくそれは、個人と社会、自然と文明、太古と現在という種々の対比を繰り込みつつ、透徹した〈光の詩学〉にこだわり抜いて、矛盾に満ちた人類史の現在を歌い上げた壮麗無比の叙事詩といった感がある。

 こうして佐藤は、彼の創作のトレードマークともいうべき二系列の表現スタイルを確立させていく。今一度、改めて両者の顕著な特質を対比的にトレースしておくと、ペンライトによる連作の光が身体性や行為性、さらには空間を異化的に構築させたいという潜在的欲望をエモーショナルに膨らませてみせたのに対し、没身体性、没行為性を際立たせた手鏡によるシリーズの光は、ひたすら寡黙で静謐な装いのうちに、次元を横すべりに転換させようとするひそやかな意志を潜ませていたともいえようか。 しかし、この二通りの光は現象する様相こそ著しく隔たってはいたものの、外部の風景に触発されて作者の内部から抜け出し、風景のなかに滑り込むという来歴においてなにひとつ違いはなかったのである。言い換えるなら、その共通する出現の仕方のうちに、佐藤の光に託した創造理念が鮮やかに照らし出されていた。いささか唐突のきらいもあるのを承知でいえば、その佐藤の理念としての光は、たとえば、かの大ゲーテによる以下の言葉を髣髴とさせずにはおかないのである。 「眼が存在するのは光のおかげである。光は光と同じようなものとなるべきひとつの器官を呼び起こし、こうして眼は光にもとづいて光のために形成される。それは内なる光が外なる光に向かって現われ出るためである」という『色彩論』★11の一節を。当然ながら佐藤の「内なる光」は、ゲーテの精神的背景をなす神への信仰体系とは無縁のものである、と断っておかなければならないとしても。

 いま少し、佐藤の画面に出現した光にこだわってみよう。特に手鏡のシリーズと出会って以来、そう感じられるようになったのが、フランスの思想家ロラン・バルトが、写真論★12において提示した写真表現の2つの要素を、彼の知る由もなかった佐藤の写真にも適用できそうな気がするからである。 「第一の要素は」と、バルトは言う。それは社会一般の「道徳的、政治的な教養(文化)という合理的な仲介物を仲立ちにしている」「ストゥディウム(《一般的関心》)」である、と。「第二の要素は、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るもの」「ストゥディウムの場をかき乱しにやって来る」ものだ、と。 それを彼は、ラテン語で「刺し傷、小さな穴、小さな斑点」などを意味する「プンクトゥム」と名づけたのである。そして「プンクトゥム」は「まさしく点の形をしている」というバルトの記述が、唐突ながら筆者の脳裏に、佐藤の手鏡シリーズの白い光点群を連想させたのだった。 東京湾岸の副都心でも夕張でもいいのだが、佐藤の画面における現実の風景を、現代日本の「ストゥディウム」を集約させた要素とみなせば、そこに浮遊する光点群こそ、その風景の外観のみならず、それを支える秩序体系を「かき乱しにやって来る」「プンクトゥム」たりうるのではないか。多くの人々が手鏡シリーズから感じ取るに違いない白昼夢的な異次元感覚は、筆者には「ストゥディウム」たる風景と、「プンクトゥム」たる光点群との確執が促した、次元のずれに起因しているようにも思えてならないのだ。


 佐藤の写真世界は、まずペンライト、次いで手鏡によるシリーズへと展開し、1990年代中盤以降はすっかり手鏡が主軸に座った感がある。そして、初期の両輪を担った一方のペンライトに変わり、大きな比重を占めるに至ったのが、ピンホール(針穴)を開けたカメラ・オブスクラ(暗箱)による作品やプロジェクトといえるだろう。 当然のことながら、それは写真の起源、根本原理を問い直し、光が運んでくる外界の像をいかに捕捉するかを再認識する試みといってもよい。この方面では、佐藤の先行世代で1982年、滞在先のニューヨークで客死した山中信夫(享年34歳)が、すでに注目すべき足跡を残していたことが知られる。 アパートの自室や借り切ったビルの一室自体をピンホール・ルーム、すなわち大きなカメラ・オブスクラにして、壁を覆うように貼った印画紙やリスフィルムに、倒立した戸外の風景を定着させた作品や、手製のピンホール・カメラ(針穴写真機)で撮影した、旋回する太陽光の渦に縁取られた特異な都市風景の連作などが有名である。 しかし佐藤の関心は、山中とは異なってカメラ・オブスクラによる作品化よりも、むしろそれを使った体験型プロジェクトの展開に注がれていたように思える。しばしば彼が「何を見てもカメラにみえる」と語っていたように、佐藤は部屋空間のみならず、ロッカー、靴箱、鍋、酒樽から、リキシャやバスなどの乗り物に至るまで、何でもカメラ・オブスクラに仕立て上げたものだった。そして、その内部壁面やそこに装填されたスクリーンに、リアルタイムの外部の情景(当然ながら倒立像)を投影してみせたのである。

 カメラ・オブスクラの仕事では、1999年に埼玉県立近代美術館の「呼吸する風景」展で試みた大作が今も記憶に新しいし、疑いもなくこのシリーズでトップクラスの代表作となるだろう。ただし筆者の好みをいえば、たとえば青梅市の織物工場跡にあった女工さんたちの旧更衣室、その古い畳敷きの部屋全体をカメラ・オブスクラに仕立てた2006年の作品とか、あるいは、1996年の旧赤坂小学校の教室跡に、収納棚一つひとつに針穴を開けたロッカーを持ち込み、それらの扉を開くと闇のなかに倒立した窓外の風景が浮かび上がる作品などに共感を覚える。 リアルタイムの外部日常の像を取り込むためには、ホワイト・キューブの展示空間よりも、日常の生活現場にカメラ・オブスクラを仕立てるに越したことはないからである。今回は写真専門美術館の展覧会とあって、大多数がプリント作品となったため、こうした体験型の作品見当たらない。 しかし、24個のピンホール・カメラを連結し球体状にしたカメラ・オブスクラで、ニューヨークのブルックリン橋やグラウンド・ゼロなどを視界360度で撮影してプリント化した24枚組みの連作が出品されている、従来の《光―呼吸》とは違う《Gleaning Lights》(拾い集める光)というタイトルからも、外部自然の光を捕捉するカメラ・オブスクラのシリーズであることが理解できよう。近年は海外での展覧会が続き、国内で佐藤の新しい試みを目にする機会が乏しくなっていただけに、今回、佐藤の写真の軌跡とともに新たな空白となっていた近年の展開を目にすることできるのは、喜ばしい限りというほかはない。

 思えば佐藤のペンライト作品と邂逅して以来、写真をめぐる環境もすっかり様変わりしてしまったようだ。とりわけデジタル化の急速な進展が、写真技術の方面にも思いもよらないような新変化を次々ともたらしたと、耳にすることが多いからである。筆者は眠り薬代わりに音楽のCDを聴くのが癖なので、しばしば楽器店に行く機会があるのだが、そこで第二次大戦中、もしくは戦前に録音された古い演奏が、驚くべき鮮明な音質で蘇ったなどという宣伝をよく見かける。 歴史的名演奏には、聴き取りにくい当時の録音こそがふさわしいと思う人間だから一度も手を出したことはないが、今日の技術レベルを考えると、ひょっとしたら本当に驚くべき音が飛び出してくるのかもしれない。過去に美術館で開催された佐藤の個展と今回のそれが大きく違うのも、そうした事情と関係している。ペンライトや手鏡による旧作群が、いずれも現在の高度なデジタル技術を介して、より鮮明な画質を持つ画面へとグレードアップされたようだからだ。いまは、何やら鮮明な音質で蘇った歴史的名演奏のCDを聴く前のような胸の高鳴りを覚えつつ、それらが披露される日を楽しみにしている。たとえその結果がどうあれ、筆者の記憶のなかに蓄積されてきた〈光の詩学〉の衝撃は、いささかも色あせることはないのだけれども。


★1──峯村敏明「光が啓く神秘の時」に引用された佐藤の言葉(「佐藤時啓 光―呼吸」展図録、ギャラリーGAN、1996)
★2──佐藤時啓『体験!現代美術みみずく・アート・シーイング』(視覚デザイン研究所、1991)
★3──★2に同じ
★4──「座談会 佐藤時啓の世界」(『佐藤時啓 光―呼吸 PHOTO-RESPIRATION』美術出版社、1997)
★5──菅原教夫「現代日本アーティスト名鑑」(『美術手帖』、美術出版社、1993年1月)
★6──吉本隆明「カメラ修業」(『背景の記憶』、平凡社ライブラリー、1999)
★7──佐藤時啓「光―呼吸」シリーズ(★4に同じ)
★8──佐藤啓時「1996年7月のノート」(★1に同じ)
★9──★8に同じ
★10──★8に同じ
★11──J.W.V.ゲーテ『色彩論』(木村直司訳、ちくま学芸文庫、2001)
★12──ロラン・バルト『明るい部屋──写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房、1997)

佐藤時啓:目にはけっして見えないもの

マーティン・バーンズ(ヴィクトリア&アルバート博物館 写真部門シニア・キュレーター)

 森に光が群れをなして輝いている、佐藤時啓の恍惚へと誘う写真を見ると、私は初めてホタルを見たときのことを思い出す。イタリアのパドヴァにある庭園でのことだった。夕闇が広がるなかで、私の目には暗がりで踊る光の点が見えはじめた。私は疲れていて──丸一日、移動と観光をしたあとだった──目にしているものを理解しようとしたときに、脳が、論理的な推論ではなく、一瞬、幻想的な想像に近道をした。 説明をつけようとしていたあいだの、混乱した、けれども魔法のような驚きの念を感じた力強い数秒のことを、私は今も覚えている。私の意識に埋め込まれた、妖精物語や、超自然的で宗教的な物語や、映画の移り変わる幻影を排除して初めて、私は自然界の説明に気づいた。近づいてみると、体が光る生きものが飛んでいるのが見え、私は、聞いたことはあるがこれまで実際に見たことはなかった、きわめて理にかなったものを目の当たりにしていることに気づいた。それは生物発光、すなわち生物による光の放出だった。 けれども、その光景になじみがなかった私は、つかの間、無邪気だが楽しい空想の旅に遊んだのだった。

 私はそのまま、その光景に喜んでほほえみ、自分のだまされやすさを楽しんだ。推論のあとで光の正体と仕組みに気づいても、私の感じた魅惑が減じることはなかった。無邪気な超自然的空想は、ひとたび経験されれば、同じように驚くべき自然の現実と共存可能であり、相互関係によって潜在力が高まる。われわれの考えとはおそらく逆に、解釈は曖昧さがあって可能になる。より多くの情報を得て、論理的な説明を求めるのは、われわれの心へ至る道ではないことが多い。事実によって理解は増すが、それだけにこだわっていては、想像を犠牲にすることになる。したがって、制作方法を完全には理解できない芸術作品については、作品に触れたときの最初の反応に内在する、なんらかの本質にこだわることが、たいていは望ましい。  ふり返ってみると、私がホタルを見たときの最初の反応は、すでに存在していた心の受容状態によって条件づけられていた。論理的なものと説明不能なものが接合する領域の可能性について、意識が高まっていたのである。私がパドヴァを訪れたのは、美術史の巡礼の旅で、スクロヴェーニ礼拝堂にあるジョットによる14世紀初頭のフレスコ画を見るためだった。その絵画を見て、私の心は鑑賞と内省的態度に満たされた。ジョットの描く人物は、聖書物語を演じる身ぶりを通して、静かなモニュメンタリティと威厳を伝える。 画家は、想像力によって物語の言葉を絵画に変換し、目に見える人間の領域と、目に見えない精霊の世界が、同じ場所に存在することを示した。絵画では、人間の努力における試練と喜びや、人間や天使の世界が交わって、同時に目にすることができる。「キリストの降誕」、「磔刑」、「哀悼」の場面では、金色の丸い光輪をつけた天使たちが──尾と、炎がたなびく羽もある──情景の上空を飛び、漂う。その動きと態度は、絵画のなかの感情を体現し、表現する。 天使は絵画の一部であると同時に、イメージの解釈者でもある。鑑賞者であるわれわれは、天使はわれわれの案内者であり対話者であると考える。佐藤の写真にある輝く謎は、同様の導く光として作用しているように私には感じられる。

 佐藤の作品は、まずその美しさでわれわれをあざむき、続いてその制作方法について謎を突きつける。私たちは実際的な説明を強く求めると同時に、幻想の出現を楽しむ。われわれは、真実を約束するものとしての写真の記号にあいかわらず条件づけられているので、最初は、目にしたものを信じがちである。私にとって佐藤の写真が興味深いのは、リアリティについての慣習的な理解の両面に存在する異なる種類の真実を描いている点だ。佐藤の写真は、表面的な外観を示すのではなく、幻想の空間と写真特有の真実の両方を巧みに表現している。 これはアーティストのつかの間の想像の記録である。すなわち、現実世界の三次元空間の探索を、写真の想像上の二次元平面に変化させたものなのだ。佐藤は、ライトや鏡を使って描くことで写真の空間に肉体として入り、身ぶりとエネルギーの記録のほかは、自身の肉体の存在をまったく残さずに去る。彼は同時にあらゆる場所に出現し、その一方で、どの場所にも存在しない。彼の痕跡は地図上に並んだ点に似ているが、われわれにできるのは、動き続ける彼の位置を推測し、それらをつなぐ可能性のある無数の道筋をたどることだけだ。このように、佐藤の写真は、謎に満ちた、彫刻的で、肉体的なパフォーマンスとして見ることができるのである。

 けれどもそれは、もちろん、慣習的な意味での彫刻を創るパフォーマンスではない。なぜなら、佐藤は次のように述べているからだ。「私の作品の出発点は、具体的なものの描写や制作の否定なので、自動的に世界にソリッドな表現を与えてくれる写真に大いに感謝している」★1。佐藤は、写真は世界をとらえて静止させるが、それはひとりでに行なわれるわけではないと認識している。写真には、写真によって解釈された真実が内在する。その真実は、長い時間および一瞬のなかに、そして光の集積のなかに存在する。 とりわけ長時間露光と、ディテールをとらえる能力によって、写真は、一瞬見ただけでは、目には見えなかったり、把握できなかったりするものを記録する。佐藤の写真は、彼の想像力とカメラの画像の両方を記録する。なぜなら彼は、テクノロジーと時間とともに、巧妙な共同制作を行なっているからだ。

 佐藤によるコンセプチュアルな観念と実際的なメソッドの密接な結合には、なにか特別な満足感がある。写真には、相反する要素という独特の言語があり、歴史的経過や、写真技術や、理論の専門用語にはあきらかな矛盾が内在している。すなわち、露光と暗室、ポジとネガ、透明度と不透明度、ミラーとウィンドウ、動きを静止させたスティル写真などである。そして、写真のDNAには、つねに錬金術の魔法の痕跡がある。佐藤もまた、相反する要素と、見かけ上の矛盾と、錬金術的な変化に取り組んでいる。

 夜の闇のなかで、佐藤はライトを使って、そのシーンにおける彼の痕跡の流れを示す線を描く。昼間の明るさのなかでは、露出過剰にならずに長時間露出が可能なNDフィルターを用いて、丸い鏡で太陽の光をカメラに向けて反射させ、断続的に点が散らばるイメージを創り出す。 鏡を用いて創られたこれらのイメージは、私にとって、視覚的にもコンセプト的にもひときわ魅力的だ。点あるいは穴は、カメラの開口部あるいは基本的なピンホールを思わせる。ピンホールがあれば、暗い部屋でイメージを投影する「カメラ・オブスクラ」ができる。 鏡で光を反射させるイメージでは、佐藤は、太陽の力を用いてカメラの目を一瞬くらませて、イメージのなかに領域を創り出し、それをフィルムに光の強烈なフレアとして記録した。シーンのどこかに佐藤がいて、鏡を用いて光を反射させているのはわかっても、遠近法で遠ざかるイメージのなかで、光が正確にどこに位置しているのかを把握するのは、ときに非常に難しい。佐藤は、われわれが、自分たちの視点から──それは、佐藤のイメージのなかでは、カメラの視点と同じであると暗に示されている──光の距離をどのように読んで測るのかを問う。 鏡は、あるイメージの反射を生じるように作られたものだ。私は古代ギリシアの哲学者、ディオゲネスの物語を思い出す。ディオゲネスは、光によって正直な人間を探し出す象徴的な行為として、日中に、ランタンを手に歩き回ったという。

 佐藤はまた、制作過程だけでなく、場所の選定においても相反する要素を提示する。すなわち、風景と都市景観、自然と人工である。都市のイルミネーションは、自動車と実用的な街灯の光は別として、祝賀を、人間による都市の美化を意味する。イギリスでは、クリスマスの時期に、どの街の目抜き通りも光で装飾される。 私が育った北部では、「ブラックプール・イルミネーションズ」という年に一度の有名な光のフェスティバルがあって、海辺の街の海岸沿いの道が6マイルにわたってイルミネーションで彩られる。都市の環境にこのような装飾的な光が存在すると、通りの建築的な構造と、物と物との間の空間に関心が引き寄せられる。佐藤の都市の光は、祝賀の度合いは低く、より思索的である。 長時間露出のあいだに、動く車や歩行者はときにぼやけ、それが蓄積して、人間の存在の幽霊となる。都会の流れのただなかにおける佐藤の光の点は、都市生活の容赦ないペースに、濃縮された静止という点を強制的に作り、時に切りこむ。静止する光や、行き交う車もなく、そこを埋めつくすはずの人もいない通りを見ると、都市を新たな目で見ることになる。 ここでの佐藤の介入は、謙虚だが強力であり、われわれの大半が選んで生きている環境における裂け目や、動きの流れの合間とその周辺の空間を、われわれにあらためて考えさせる。

 都市とは対照的に、われわれはしばしば、自然に浸ることで安らぎと集中を取り戻そうとする。佐藤による海や山の写真は、あがないの風景という典型的な主題を取り上げ、それに幽霊のようなひねりを加える。まるで、このような美しい場所にもともと住んでいる普通は目に見えない自然の精霊を、佐藤が少しずつうまく引き出したかのようだ。佐藤による場所の選定には、通俗性ではなく直感が強く感じられる。そのことについて、彼は次のように述べている。「ある空間では、オーラを直感的に感じる。それはその場所の歴史的な意味から来るのかもしれない。私はその重要性を感じ取る自分の感覚に基づいて撮影場所を選ぶ」★2

 比較するものとして私の頭に浮かぶのは、ヴィクトリア時代の精霊写真の画像や、森で踊る妖精の画像だ。だが、佐藤の作品ははるかに信憑性が高い。それは、捏造した事象ではなく、実際の事象の結果であるからだ。魔法を完成させるのはわれわれの想像力だ。光には──人工的、あるいは技術的な、目に映る側面よりもむしろ──擬人化された、有機的な性質がある。なぜなら、光は、人間の身体と同じ割合、つまり佐藤自身の身体の届く範囲で風景に置かれるからだ。 佐藤が光を発するため、あるいは鏡で反射させるために、岩に登り、海で泳ぎ、地面に屈み、枝に手を伸ばすと、その痕跡が見つかる。彼の創るイメージは、思索的な状態を呼び起こすかもしれないが、一方で、制作過程は穏やかとは言いがたい。 イメージのなかの各座標から光を発するために必要な距離を、肉体によって移動するために佐藤が行なった驚くべき努力を考えてみるとよい。その間ずっと、佐藤は求める結果を生み出すために、みずからの動きと、呼吸とエネルギーを費やして、そのシーンのなかの点から点へ移動している。だからこそ、「光-呼吸」というタイトルは、実に適切なのである。

 佐藤のイメージの制作方法を知れば、光に照らされた多数の存在があるのではなく、ただひとつの存在──すなわち、アーティストの存在──が多数あるのだということがわかる。そのように考えると、彼の遍在は、ある種の神性を暗示すると見なされるかもしれない。すなわち、見えざる創造主のつねに存在する力だ。 あるいはこれは、ただ単に、ひとりの人間の力の、鼓動と動きと呼吸の記録かもしれない。人間であれ神であれ、どのように解釈されようと、光は超越と特異性の両方を擁護する一種の印だ。人生と同じように、たとえ一瞬でも、「私はここにいた」という印だ。佐藤の試みは、個々の人間の、人間としての独自性と、汎神論的遍在の両方を、内面を発見する旅と外界を発見する旅に象徴させるものと見なすことができる。 そしてそれは、単独の探究者についてのよく知られた金言を典型的に示している。すなわち「道の行く先をただ進んではいけない。そのかわりに、道のないところを行き、痕跡を残しなさい」という言葉だ。

 佐藤の作品の背後には、特定の精神的な動機はないように見える。むしろ、精神的とはどういうことかという問題についての、より幅広く、包括的な考えがあるようだ。佐藤は次のように述べている。「私は自分のアートを精神的な文脈では考えていない。けれども、光がそのような暗示的意味を喚起するのは事実だ。また、私自身の活動には、呼吸のような単調な繰り返しが含まれており、それは、それ自体が精神世界であるかもしれない」★3

 佐藤は、写真の実験的なテクニックを用いて写真という媒体の意味と詩情を高め、目に見えない力の潜在力とリアリティに関するメッセージを表現する、他の同時代のアーティストとある種の類似性があると私は思う。そのアーティストの具体的な例としては、イギリスのアダム・フス、スーザン・ダージェス、ギャリー・ファビアン・ミラーが挙げられる。 彼らはみな、写真の基本的な本質を──光の時間と感光面を──探求し、つかの間のものと崇高なものに関わる啓示的なイメージを創造する。彼らは写真のプロセスを用いて、われわれが裸眼では認識できないものを見る。芸術実践と、これらの作品におけるある種の霊的な示唆との区別は、当然ながら不明瞭だ。 佐藤の作品では、時の透過性のある境界は、現実と超自然との間のずれを示唆する。少なくとも、画家のパウル・クレーが「芸術とは目に見えるものを再現することではない。見えるようにするものである」と述べたときに理解していたであろう方法で、佐藤は目に見えないもののリアリティを仮定しているのである。 ここでも、写真のプロセスと佐藤の作品の両方に見られる二分法と二項対立は、極と極の間で、たいていは感知されずに存在しているものを知覚する可能性を創り出す。佐藤は講演で次のように述べている。「われわれの存在が可能なのは、圧倒的な非存在があるからだ。同様に、われわれがみな今日生きているのは、われわれの前に生きた人々がいるからだ。 私は、〈存在〉という観念は、不在という観念において最も強く表現できると考えており、不在という観念は、目に見えるリアリティを信じようとしない、深い霊的な交流を持つ人々と密接に関連していると考える」★4

 この言葉によって、私は、庭園のホタルと、その光景を目にしながら、それが何であるのか説明できなかったときの、浮遊した畏怖の念に立ち返る。その瞬間、私の論理的思考は不在だった。この空間に、なにものでもないと同時に可能性でもある不在が立ち上がる。ふり返ってみると、論理的の反対はかならずしも非論理的ではなく、「超-論理的」でもあると私はわかる。それは芸術や、死や、無限や、愛のようになにかを変形させる力を持ち、論理的な知性が処理できるものよりも大きい。

訳注
★1──Elizabeth Siegel, Tokihiro Sato Photographs: Photo Respiration. The Art Institute of Chicago, 2005, p.28
★2──同、31頁
★3──同
★4──同,.

写真のなかだけに存在しうる世界──うつるものとうつらないもの

鈴木佳子(すずきよしこ/東京都写真美術館学芸員)

 「彫刻のような実際の空間に作品を制作していた私が学んだものは、コンセプチャルアートやランドアート、そして、日本のモノ派といった現代美術の歴史でした。様々な実験をしつつ、光が穴を通じて映像を形作るという、原初的な原理の中に、自然や都市の中に実際には何も残さずに写真の中にだけ存在しうる世界、方法を見つけ出したのです」★1

 光が穴を通じて映像をかたちづくるという原初的な原理。それは佐藤時啓の作品を成り立たせるうえで不可欠な要素である。佐藤がピンホール・カメラやカメラ・オブスクラ、長時間露光撮影を表現手段として使用する意味を理解するためには、それらの装置や技法がどのような特徴を持つのかを知る必要がある。

物質になった映像──うつろいゆく映像から静止した写真へ

 人類初の映像体験はピンホール(針穴)を通して光が像を結ぶという現象であった。ラスコーやアルタミラの洞窟画がこの現象を利用して描かれたという仮説もあるが、文献として残されている最古のものとしては、紀元前5世紀に中国、戦国時代の思想家墨子が記している。西欧では紀元前4世紀にアリストテレスが日食の太陽と同じ三日月形をした像が暗い地面に無数に映っているのを見つけ、それが広葉樹の葉と葉の小さな隙間を通った光によるものであることを発見した。10世紀にはアラビアの物理学者アルハゼンが針穴の大きさが小さければ小さいほど結ばれる像が鮮明になることを突き止めている。

 このピンホール現象を応用して、像のコントロールを可能にしたのがカメラ・オブスクラである。ラテン語で「暗い部屋」という意味を持つこの光学装置はレオナルド・ダ・ヴィンチの記述にも残され、ルネッサンス期に至るまでには、科学者、魔術師、画家などの間ですでに馴染みの光学装置になっていた。

 カメラ・オブスクラは部屋や箱などの暗い空間にピンホールをあけたものだが、そのかわりにレンズを取り付け、外部の風景を内部の空間に映し出すものである。鏡の反射を利用して像をスクリーン上に移動させ、そこに取り付けたトレーシング・ペーパーを筆記具でなぞれば、正確な一点透視法による描写ができる。画家たちに積極的に使用され、17世紀オランダではフェルメールが多用したことでも知られている。17世紀から19世紀にかけては、さらに改良を重ね、像はより鮮明になっていくが、その像を人間の手によらないで定着させることはできなかった。

 それに成功したのは、1824年のニセフォール・ニエプスによるヘリオグラフィが初めとされているが、露光時間に8時間以上もかかり実用的ではなかった。その原理を継承して普及させることに成功したのがルイ・ジャック・マンデ・ダゲールのダゲレオタイプである。1839年に世界初の写真発明として公式に認められた。

 この発明によって、移ろいゆく映像を静止した画像として留めることができたのである。そのとき、映像は物質になり、写真になったのである。

長時間露光

 ダゲレオタイプの露光時間は10分から20分になり、ニエプスのヘリオグラフィより格段に短縮されたが、被写体が動くとブレるか、半透明になるか、または消えてしまい、写真にちゃんと写らないため、ポートレイト撮影の際はじっとしていなければならなかった。
 この事実を物語る有名なエピソードとして、ダゲールがダゲレオタイプで撮影した「パリ、タンブル大通り」がある。彼が露光していた間、姿勢を変えずに立っていただろうと考えられる1人の男性を除いては、日中の市街地にもかかわらず、人も馬車のすがたも写真に写っていなかった。
 その後、長時間露光は写真技術の克服すべき点として改良を重ねていく。写真技術は、感光材料の感度を上げ、速いシャッター・スピードにより瞬間撮影を可能にすることに向けられたのである。

イメージの絶対性、プリントの絶対性

 光と穴によってつくり出される映像は感光可能な支持体を得たことで、物質化され写真となった。その写真にはふたつの側面があり、ひとつは、写真のイメージを最優先とし、写真の大きさは自在に変化するもの、という考え方。もうひとつは、写真のサイズや印画紙など、支持体の素材を重要視する考え方である。
 ダゲレオタイプの誕生と同時期に発明されたウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットによるもうひとつの写真術はネガ・ポジ法によって、同一画像が何枚も得られることを可能にした。しかも、後には画像のサイズを引き伸ばしによって自在に変えることができるようになると、イメージの絶対性が優位の時代が始まる。このイメージ優位の時代は1960年代まで続いてゆく。そして1980年代頃より、物としての写真に注目が集まるようになり、大きさや素材をはじめ、最終的なプリントをどのようなかたちに仕上げるかに注意が払われるようになる。

光と時間がつくり出す写真というメディア

 光と時間が空間に映像をつくり、その映像を定着できる感光材料という実体を得た時、写真が誕生した。このメディアは、写真装置と感光材料、例えば、カメラとフィルムというような、写すための装置とそれを留める支持体の両方によって成り立っている。そのふたつが、写真の発明時より、性能の質を高めることに専心してきたのが、写真の技術面における歴史である。
 写真装置においては、レンズは明るさをめざし、カメラは大型から小型化へ、シャッター・スピードはより速く、を目標に進化してきた。写真感光材料も、フィルムは扱いやすく、小さく、高感度を目指して改良を続けてきた。さらにアナログからデジタルへの移行によって、高解像度を更新し、カメラはコンパクトになり、携帯端末にも搭載されるようになった。その手軽さゆえに、あらゆるところに写真が使われ、web上には膨大な量のスナップショットが氾濫している。かつて写真を撮るために必須だった、カメラにフィルムを入れて、絞りとシャッター・スピードを設定して撮影に臨むという行為さえ、現代人の大半にとっては忘却の彼方にあり、その存在さえも知らぬという状況である。
 カメラという存在は、液晶画面のマークをタッチするだけの操作で画像データが手に入り、その画像はデジタルの世界でやりとりされるものだ、という捉え方に取って代わられた。写真装置はもはやブラックボックス化し、光と時間が画像をつくりだすという原理を思い出す機会さえも失った。ピンホール現象の発見から遥か遠くに現代は行きついてしまったのだ。
 しかし、小さな穴を通った光が像をつくるという原理はどこまでいっても不変の事実である。長時間撮影から瞬間撮影へ、大型カメラから小型カメラへ、アナログからデジタルへと時代によって進化してきた方向性を逆のベクトルで大きくさかのぼり、紀元前の映像の発見から写真の誕生期に照準を合わせると、佐藤作品の核となる部分に近づくことができる。それは映像の原点である光と時間の関係性を、自身の表現によって探求しようとすることである。

<光-呼吸>

 写真画面上に点在する無数の光は佐藤がカメラへ向けて放った太陽光の鏡への反射の光である。それぞれの光は佐藤がその地点にいたという証拠でもある。一方、画面上に光が表われていない部分。光から光へ、ポイントからポイントへ、佐藤は風景のなか、発光体を抱えて移動したはずなのに、写真には何の痕跡も残されていない。
 佐藤のすがたが画面上のどこにも見えないのは、長時間露光の原理に因る。現代の写真技術は、レンズもカメラもフィルムも、かなりの高感度になっているため、通常の撮影では一瞬でシャッターが下りてしまう。そのため、黒い色をしたフィルター(NDフィルター)をレンズの前に取り付けて、レンズに入ってくる光の量を減らすことで、露光時間を長くし、佐藤は風景のなかを歩き回る時間を確保しているのだ。
 ≪#347 Hattaci≫(p.37)は、福島県いわき市の波立海岸で撮影された。ウェットスーツを着込んだ佐藤は手鏡を持って海水のなかに入り、浜辺に三脚で固定した8×10インチの大判カメラのレンズに鏡を向ける。漂いながら、泳ぎながら移動し、次の地点でも鏡を向けて光を放ち、一連の作業を1時間程繰り返す。佐藤が海から上がってシャッターを閉じるまで、露光は続けられたままであるが、佐藤が海中で動き回ったすがたは最終的に何ひとつ表われない。長い露光の末に、大きな波も小さな波もなだらかになり、画面中央の柔らかい霧の白い帯へと変ってしまう。動くものはすべて消え失せ、頑として動かないテトラポットとまっすぐな水平線、そして強力な太陽光の鏡の反射が画面上に残るだけである。

<Gleaning Lights>

 ピンホール・カメラを使った<Gleaning Lights>シリーズは、<光-呼吸>シリーズと同様に長時間露光の原理による表現である。それは露光の間に動いた映像が蓄積された痕跡として記録されていることでもある。<光-呼吸>では動いた映像の蓄積は透明化し、<Gleaning Lights>は完全に写ってはいないが、半透明化していて、ブレたりしている。ともに時間の蓄積が物質化しているにもかかわらず、<光-呼吸>における佐藤の行動の軌跡は透明化している。それに対し、<Gleaning Lights>の被写体、例えば、遊園地の観覧車はブレて、人の動きは半透明にとどまっている。ブレて、半透明であるがゆえに、<Gleaning Lights>の世界には、ある時間の幅がそこに存在していることを強く感じさせる。
 では、ピンホール・カメラならではの表現についてはどうであろうか。ピンホールは原理的には、パン・フォーカスであり、レンズのように画角をもたない。そのため画面のすべての位置にピントが合って見え、超広角から超望遠のイメージを得ることができる。
 このピンホール・カメラの特徴を利用し、さらに視覚的表現を発展させるため、佐藤はピンホール・カメラを自分で制作している。それらは、大きくふたつのタイプに分けられる。ひとつは、複数のピンホールが1台のカメラに備わっているもので、異なる時間と方向で撮影されたイメージを同じ8×10インチの1枚のフィルムに写し込めるカメラである。そのカメラによって、時間と空間をずらしての多重露光撮影が可能になり、さらに、ピンホール・カメラの特徴である画面の奥行の深さと画角の広さ、長時間露光の効果が得られるようになる。時間と空間を変え、長時間露光、多重露光、パン・フォーカス、画角の違いなどの複合的な要素によって、非現実的な視覚をつくりだし、SF映画のような異次元世界の印象を作品全体に与えている。
 もうひとつは、45度ずつセットした1穴のピンホール・カメラが24台連結され、360度を写し撮れるカメラである。24台で撮影された写真は、時間差で別の方向を捉えていても、前者とは別の世界をつくりだしている。全体としてはひとつのパノラマ風景をなしているが、それぞれの写真は独立したイメージとして存在している。それによって、前者のなだらかな時間の流れはなく、コマ送りのような分断された時間を感じさせる。

<Wandering Camera>

 <光-呼吸>シリーズや<Gleaning Lights>シリーズでは、撮影者である佐藤はカメラの外にいるが、<Wandering Camera>ではカメラのなかにいる。それは、カメラ・オブスクラという写真装置がこのシリーズには用いられているからだ。
 そのカメラ・オブスクラを佐藤は自ら制作しているが、その構造は、ルネッサンス期に画家たちが描画のために使用した小型のカメラ・オブスクラではなく、娯楽用の見世物としてのそれに近い。カメラ内部に何人かの人が入って床に映された映像を楽しみながら見るというものだ。
 その仕組みにならって、「漂泊するカメラ(家)プロジェクト」として、<Wandering Camera Project>の前進となる、自動車が牽引するカメラの制作を2000年に開始した。上部に直径100mmの焦点距離2500mmの単レンズを備え、45度にセットした鏡により、2m×3mの床面に焦点を結ぶ。レンズはモーターにより360度回転し、任意の方向から外部の風景をカメラ床面に映し出す。撮影時には、レンズにシャッターを取り付け、直径10mm程度までレンズの絞りを絞る。解放値のF値が25のレンズで、F値は250によって撮影。暗闇のなかで印画紙を床に敷き詰め撮影する、という構造だ。
 街中に出没するカメラ・オブスクラは、外見のユニークさでも人々を楽しませ、なかに入ると、身体サイズの巨大な映像の鮮明さがさらに驚かせる。人々は、カメラの構造に身を置き、光が映像をつくりだすという現象を体ごと経験することになる。
 <Wandering Camera>よりも小型化かつテント型になったのが<Wandering Camera 2>シリーズのカメラ・オブスクラであるである。カメラのなかの映像を別のカメラが撮影するという仕組みで、床面そのもののイメージとカメラ・オブスクラの外部の映像が重なる構造になっている。
 地面には、砂利や小石、舞い落ちた花びら、地面を覆いつくす雑草、コンクリートのひび割れ、砂浜に散らばる貝殻、アスファルト上のマンホールなど、カメラ・オブスクラがセットされた地面の模様が浮き上がったようにくっきりと見える。その質感は、カメラ・オブスクラによる高精細な映像、高解像度のデジタル・カメラ撮影、「プリントの絶対性」としての印画紙サイズと素材の選択によって再現されている。
 佐藤のカメラ・オブスクラのレンズは、日の出と日没の太陽に向けられ、一方で、桜が咲く無線山や自宅、石巻の海岸に打ち上げられた船、片足部分が欠損した自由の女神像が立つ中瀬マリンパーク、女川原子力発電所へも向けられる。日常・非日常の風景がそれを結び付ける土地と重なり、暗喩的で抽象的な世界をつくりだしている。


 佐藤の作品は光と時間の関係性を問いかけるものだ。その答えを解く手がかりは、彼の長時間露光の表現にある。20世紀において、写真は瞬間を写し留めるものという常識があるが、それを転倒させるのが佐藤の表現である。瞬間には実は幅があったのだ、ということに彼の作品は気づかせてくれる。 100万分の1秒、100分の1秒、1秒、1分、1時間という時間も、幅があるという見方においてはみな同じである。例えば、ハロルド・ユージン・エジャートンの≪リンゴを貫く30口径の弾丸≫は100万分の1秒で露光され、その弾丸は静止した状態で捉えられている。しかし、それは100分の1秒では捉えることができない。 人の歩く動きも100分の1秒では写るが、1時間では写らない。写るものと写らないものを左右するのは時間の幅という存在だったのだ。いっぽうで、写真は光がないと写らないという写真原理の大前提のうえで、光があっても、写るものと写らないものがある、という事実がある。しかし、それらは写真のなかでは同じことなのだ。
 もし仮に、時間の帯というものが本当にあるとしたら、佐藤はそれをひっぱって伸ばし、そのことを写真という表現で、私たちに示してくれるのである。そのために「写真の中だけに存在しうる世界」を創造しつづけているのである。


★1──佐藤時啓 インディアナ大学ブルーミントン校でのレクチャーから(2010年)。